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点の魅力をみなとみらい全体へ
ハンマーヘッドから始まるまちづくりの「壮大な実験」
新港ふ頭客船ターミナル株式会社 岡田 伸浩 社長

岡田 伸浩(Okada Nobuhiro)

1953年横浜市生まれ。慶應義塾大学商学部卒。株式会社伊勢丹を経て、1977年に横浜駅前の商業施設「横浜モアーズ」などを運営する株式会社横浜岡田屋に入社、1993年から同社代表に就任。2019年から横浜ハンマーヘッドを運営する新港ふ頭客船ターミナル株式会社の社長にも就き、みなとみらいのまちづくりに尽力するなど地域活性化に向けて第一線で手腕を振るう。

岡田 伸浩(Okada Nobuhiro)

クルーズ船などの船舶を受け入れる客船ターミナル機能に商業施設、ホテルが併設された日本初の複合施設「横浜ハンマーヘッド(YOKOHAMA HAMMERHEAD)」。
2019年にみなとみらいに仲間入りして4年、多彩な取り組みで注目を集めています。同施設を管理する新港ふ頭客船ターミナル株式会社の岡田伸浩代表取締役社長にお話を伺い、そのコンセプトと、地元企業による「内発的発展」から生まれる未来について深掘りします。

日本初の客船ターミナル複合施設

日本初の客船ターミナル複合施設
日本初の客船ターミナル複合施設

水平線の向こう側から船が乗り入れ、船旅を楽しむ方や船員が次々とふ頭に上陸する新港地区には、港町・横浜らしい光景が広がっています。「横浜ハンマーヘッド」は2019年10月31日、この港町が色濃く息づくエリアに誕生しました。「ヨコハマ ウミエキ」をコンセプトに、街と陸・海・空をつなぐ横浜らしい港の賑わいのハブとなることを掲げており、大型客船の受け入れに対応したターミナル施設をはじめ、食をテーマにした、25店舗もの個性的な飲食店等を集めた商業施設、ラグジュアリーホテル「InterCotinental Yokohama Pier8」を併設した日本初の複合施設です。

オープンから4年。同施設に出店するコンビニエンスストアに尋常ではない種類のクラフトビールが陳列されていることから、SNS上で全国のクラフトビールマニアの注目を集めました。他にもレストラン店舗では、酒造免許を取得し施設内でクラフトビール醸造やクラフトジン蒸留を行っている店舗もあるのです。類をみない取り組みは他にも。スイーツカフェゾーンの店舗では、共用部分から製造過程が見えるようガラス張りにし、食べるのはもちろん、見ているだけでも楽しめるよう工夫されています。

港のシンボル・ハンマーヘッド

港のシンボル・ハンマーヘッド

そもそもなぜこの施設は「ハンマーヘッド」と呼ばれているのでしょうか。そこには、港町・横浜の歴史があります。

横浜港の歴史は、1853年に米国ペリーが浦賀(横須賀市)に来航し、1859年に日米修好通商条約で神奈川開港が決まったことから始まります。1899年から大さん橋に加えて大型船が接岸できる岸壁を確保できる港の建設が始まり、以後、このエリア一帯は、東南アジア有数の物流拠点として栄えていきました。

さらなる船舶の乗り入れと取り扱い貨物の急増に対応するため、新港ふ頭の築港工事と合わせて1914年に整備されたのが、日本初の港湾荷役クレーンで施設名の由来となる「ハンマーヘッド」です。高さ約30m、鋼材や生糸などの重量物を最大50トンまで運ぶことができます。下ろされた積み荷は同時期に整備された赤レンガ倉庫に一時的に保管され、国内へと運び込まれました。当時から、その姿が金づちに似ていたことから、「ハンマーヘッドクレーン」の愛称で親しまれていたといいます。

1945~1956年の約11年間、横浜港の大部分がGHQに接収され新港地区も「センターピア」という名称でアメリカ軍の輸送部隊が使用しましたが、返還後、日本は高度成長期に突入し横浜港で取り扱う貨物の量も爆発的に増え、再び活気を取り戻しました。
しかし貨物の荷役作業もコンテナ式が主流となったことから、1970年代以降徐々に物流施設としての役割を縮小していきます。その後、1983年からはみなとみらい21の開発がはじまり、日本丸メモリアルパークやパシフィコ横浜、横浜ランドマークタワーなどの施設が続々と誕生。商業施設やオフィス、ホテルが集積するエリアへと成長しました。中でも、新港地区は、赤レンガ倉庫をはじめ、かつての港町の風景を色濃く残しながら整備が進められ、人々に愛される場所となっています。ハンマーヘッドクレーンは、2001年にはクレーンとしての役割を終えますが、新港ふ頭の変遷を見守りつづけ、今も在りし日の姿を伝えています。

「点の魅力を面につなげる」

起工式の様子
起工式の様子
地元企業でプロジェクトの会見に臨む岡田社長
地元企業でプロジェクトの会見に臨む岡田社長

横浜市は2017年、新港ふ頭の歴史や個性を生かそうと、「新港地区客船ターミナル(仮称)等整備事業」を公表し、開発事業者を募ります。株式会社横浜岡田屋の代表を務める岡田氏の耳にもこの話が届きました。ですが、当初は手を挙げるか悩んだと言います。「初めてハンマーヘッドの建設予定地を見た時、『黄昏』という言葉が似合う、さびれたエリアだと感じたのが本音でした。横浜市の方から『この港は年間40万人近い人々が利用する』と説明がありましたが、私たちの運営する商業施設が隣接する横浜駅は、1日乗降者数が数百万人もいる。三方を海に囲まれて、魚はたくさんいるかもしれないけれども、人を呼ぶのは難しいと思ったのが正直な感想です」と心中を吐露します。

一方で、この新港地区の地理的利点も、岡田氏は見抜いていました。「仕事の一環で、マイアミなど世界中の港や商業施設を見てきました。横浜は世界と比べても、港と都市が非常に近い。コンセプトを明確に打ち出して、あの場所に行きたいと思ってもらえる施設にすれば、賑わいが生まれる可能性を秘めているとも感じていました」。揺れ動く中も、地元を盛り上げるのは地元企業でなくては、という思いが岡田氏をつき動かします。実は、多くの企画案が模索されたといいます。海に近いことから水族館を整備する企画を考えるも、水質維持のろ過装置の問題で断念。ミュージカルを催すことができる劇場を思いつくも、舞台下の装置の建築には地面を掘り返す必要があり、やはり諦めました。

そうした試行錯誤の末に、現在の横浜ハンマーヘッドの姿を考案。地元企業8社で共同企業体を構成し、代表企業として開発事業者に名乗りを上げました。

「そもそもここは、船が出入りするふ頭だった場所。単純な商業だけでは人は集まりません。だから、ターミナル機能と、レストランと、ホテルと、これらを一体的に整備することにしたんです」。オープンから4年。岡田氏の狙い通り、赤レンガ倉庫や横浜ワールドポーターズとも異なる個性を放つ、唯一無二の施設となりました。

「横浜ハンマーヘッドは、実際に近隣エリアに住んでいる人も多く来てくれる“大人の場所”になってきていると思います。新港地区には、個性ある施設が多い。一つ一つの施設がさらに個性を高め、施設同士で連携することができれば、点としての魅力が線となり、面となり、回遊性が生まれ、エリア全体の活性化につながっていきます」

世界の玄関口としてのおもてなし その舞台裏

新港ふ頭周辺
新港ふ頭周辺
ベイウォークマーケット
ベイウォークマーケット

岡田氏の考え方の根底には、内発的発展があります。内発的発展とは、そのエリア以外の資本に依存せず、エリア内のステークホルダー(企業や市民、自治体など)の力を持ち寄り、産業育成のみならず教育や文化、福祉など、総合的なまちづくりを行っていくという考え方です。

「着工から40年を経てハード面がほぼ整備されたみなとみらいは、今後は内発的発展の実験場として、まちづくりのベンチャーが集う場所になればいいと思うんです。実証実験に取り組んでもいいし、企業同士の連携を広げてもおもしろい。みなとみらいを壮大な実験場と捉えて、地元のアイデアのある人たちが、『やっちゃえ横浜』の精神で創意工夫を凝らしていけば、まだまだ発展していくと思います」

そうなると、どんなアイデアが浮かぶのでしょうか。岡田氏に水を向けると、「あのハンマーヘッドクレーンの上にはちょっとしたスペースがあるから、そこに1日1組限定で宿泊体験とか面白そうだよね」と冗談交じりに愉快なアイデアが飛び出しました。100年以上にわたって横浜を見守ってきたハンマーヘッド。そして新たな発展をはじめたこのエリアから、次はどんなアイデアが出てくるのでしょうか。ハンマーヘッドはその場所から、まだ見ぬみなとみらいの魅力を引っ張り出してくれるはずです。